長く生きていれば当然訃報を聞く機会が増える
私の父母も亡くなった、祖母も亡くなった
叔父叔母も亡くなった
そしてテレビで「知っている人」の訃報を聞く機会も増えた
長く生きれば生きるほど、そういう機会が増えていくのは当たり前だ
親族の訃報の瞬間というのは鮮明に覚えている
祖父の時はどうだったか、祖母の時はどうだったか、どういう順路でその話が聞かされたか、県外の親戚の家までどの様に行ったか、そこで何が起こったか、休憩中何をしていたか、もう30年くらい前のことだが鮮明に覚えている
例えば祖母の時には「線香当番」を引き受けた
一晩中線香の火を絶やすこと無く見ていなければならないので、線香当番というのがあるのだ
東名を兄弟それぞれで車を走らせた
子供の頃、父の車に乗って後ろの席から流れる情景だけを見ていたが、不思議と道を覚えているものだとしみじみ思ったのを覚えている
祖母の家は東名を降りてから山に入っていくので30分以上掛かるのだが、10年近い年が過ぎていたが行くことが出来た
(まぁ山だから殆ど開発されて無くて見知った道とほぼ変わってなかったのだが…)
もちろん私が子供の頃から芸能人の訃報を告げる番組はあったし、場合によってはその人の特番が組まれ「その人が出演したドラマの再放送」なんかもあった
訃報を聞いて「えっ?あの人が」と驚くケースも多い
例えば芸能人の中にも「若くしてこの世を去る」人が居る
また直接会っているわけではないから勝手に「テレビでよく見かけていた時代」のまま時間が止まっていて、気がついたら「そんな年齢だったのか」と驚く場合もある
私達一般人は「10年くらいテレビで見かけていなくても気が付かない」傾向がある
そして自分が見た当時のまま「変わってない」と思いこんでしまう癖もある
子供の頃、親戚の家に行くたびに「こんなに大きくなってビックリした」とよく言われていた
自分からすると「毎日が昨日の続き」だから少しも変わったつもりはないのだが、久々にあった親戚や数年ぶりにあった親戚からは驚かれることが多く不思議に思っていたのだが、気づいてみれば自分も従兄弟の子に対して同じことを言っていた
自分があんなに嫌だった言葉なのに…
「大きくなったねぇ、ビックリした」
現在は少子化が進んでいて、つまり自分の子供はもちろん自分の兄弟に子供ができる機会も減っているようだ
つまり親戚の子に対して「大きくなったねぇ」と驚く機会が減っているのかもしれない
私の祖母は、長生きしたばっかりに「自分の息子」の葬儀に出席する羽目に陥ったという話をしたが、つくづく「長生きとはなんだろう」と考えさせられる
若い頃は長生きしたかったが、長生きが必ずしも「幸せ」とは限らず、少なくとも「健康で自分で動けること」が大前提となる
だって長生きしたはいいが、ベッドの上から立つこともままならず、排泄さえ誰かの世話にならなければならないことは、きっと誰でも人として「辛い」ことのはずだ
この世の摂理とはいえ、「子供に迷惑は掛けたくない」と思うのは、きっと誰でも同じはずだ
どの人の人生にも最盛期があり、安定期があり、衰退期がある
少なくとも死を迎える間際に「悪くない人生だった」と思えるのが理想だ
電話占いカリス 口コミで当たると評判の占い師を厳選 初回最大10分無料